自分の考えもあって、これまでこのブログには愚痴や悲しい話題を載せずにきましたが、自分にとって大きな出来事なので、今回は特別に。
今月13日に親父が亡くなり、あの世へ旅立ちました。享年83歳
昨年6月にかなりステージの進んだ肝臓がんであることが分かり、手術もせず(できず)日々過ごしていました。時間も経ち、それなりの覚悟もしていたつもりでしたが、最後は入院から1週間も経たないうちにあっという間に逝ってしまいました。前日に親父を見舞い、東京に戻ってすぐの急な知らせだったこともあり、拍子抜けのような感じで少々驚きながら田舎にとんぼ返りしました。
最後の瞬間は立ち会えませんでしたが、亡くなる前日に母親を伴ってお見舞いできたのは本当に良かったと感じています。「親父が弱り始めた」という知らせを聞き東京から駆けつけ亡くなる前々日(土曜)に1人で親父と対面した時は、意識が遠のき始めた頃で、反応が全くありませんでした。
何とも残念な気持ちが残ったので予定を変え、次の日(日曜)もう一度対面してから東京に戻ることにしました。母親は火曜に見舞う予定でしたが私がいるうちに一度会わせようととっさに思い、母を伴い病院に向かいました。
意識が朦朧とする犬好きの父に繰り返し見せた動画の一部が
モモちゃん(♀)の動画。
目でモモの動きを追っていることが確認できたので、盲聾の母親と何度も話しかけました。
たまに痛いそうな表情をした時に「痛いやんか?我慢して。頑張れ!」と手話をすると、かすかに細かくうなずいているのが分かりました。また、「帰るね、バイバイ!」という手話にも僅かなうなずき。
間違えかどうか知りたくて、長い時間病室にいましたが、上の手話の質問には、2回、3回とうなずいてくれたので、会話できたことに安心して病室を離れました。
これが、母と私の、親父との最後の会話になりましたが、今にして思えば亡くなる前にこうやって僅かながらでも親父と気持ちを通じることができたのは幸いでした。
ここからは父との思い出話になりますが
小さい頃は、怖かったし、食事の時はいつも嫌いなおかずを私のご飯の上にのっけるのが嫌で、泣いたままご飯を食べないこともしばしば。その影響で小さい頃体が小さかったんじゃないかと思うくらいです。
そんな親父との関係が変わってきたのが私が仙台の東北福祉大学に通うようになってからでしょうか?写真は両親が仙台に遊びに来たついでの東北旅行での一枚。平泉金色堂前。この頃はまだ母の目もそこそこ見えていました。
私が教師を辞め、役者の勉強で東京に上京して何年かはあまり田舎に戻りませんでしたが、さすがに親不孝をしている申し訳なさから、30歳半ば位からは盆、正月に田舎に帰ることが唯一の親孝行という感じでした。
そして、雪の心配のない、暖かい(暑い?)夏に、両親をドライブで連れて行くのがいつの間にか、恒例に。
母は目が見えないのでドライブはもっぱら親父の希望が優先。母は想い出作りに付いて来るといった感じでした。
過去のブログでも取り上げた、最初で最後になった、東京での、私が出演する舞台の鑑賞。(2015年5月の記事)
そして、両親の金婚式を祝う温泉家族旅行。(2015年11月の記事:兄とその娘(
姪っ子)は顔消してます)
親父がいなくなった今となっては、懐かしい思い出となりました。
元気な頃は、マイペースで好き勝手やり、揉め事が起きる度、我々兄弟がその仲裁のため苦労させられた親父でした。手話の問題もあったと思いますが、話しがうまく通じず、泣きながら説得したこともありました。そんな父でしたが、目の悪い母をサポートする姿は尊敬できる部分でした。
このホームページに、今まで「母にニュースを触手話で通訳する父の様子」をアップしていましたが、これからはその父がいないわけで、当然ながら残った母親が心配です。東京に暮らす私が心配したところで仕方がない部分もありますが・・・幸いなことに、葬儀の次の日の早朝もいつものように掃除をする姿がありました。掃除、洗濯の仕事に追われる綺麗好きな性格が幸いしているようです。
また不幸中の幸いですが、4月からの番組収録や他の仕事が重なる週より1週早く親父が亡くなったことで、亡骸に長い時間寄り添い、兄と思い出話をしたり、ゆっくりと親父を送ることができました。
小さい頃はホント嫌いだった父でしたが、ここ数年は「この両親だったからこそ、今の仕事ができているし、やりがいを感じることができるんだ」と感謝する場面が度々ありました。指文字も知らなかった私が親父と手話や指文字で会話する。自分の中にも、いくらかの感慨がありました。帰省する時の一つの楽しみだったかもしれません。そんな父がいなくなったのは寂しくも感じますが、感謝の思いがあるからこそ頑張らねば!とも思います。
長文でまとまりがなく恐縮ですが、親父を懐かしみ、じっくりと記事を噛み締めて書かせていただきました。